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順天倭城(スンチョン倭城)
慶長の役 第二次朝鮮出兵
BS-TBS歴史解説番組 
関口宏の一番新しい中世史
で解説がありました。
TBSなのでサンモニにそのままで、戦後教育視点でしたがこの手のものがほとんどなく参考になりました。
1時間番組で朝鮮出兵になんと三回も。どうしたんやろう。。
1回目は第一次朝鮮出兵、2回目は休戦状態で小西行長の陰謀によるにせ?外交について。
3回目はにせ?外交がばれて当然決裂、慶長の役及び豊臣秀吉の死について。
このブログでは3回目について書きたいとい思います。
〇明から使者が秀吉は降伏の使者と思っていたが、明の使者は豊臣秀吉を日本の国王にすると言ったことに激怒。朝鮮出兵を再開する。
〇慶長の役は現実路線で明を征服するものではなく、とりあえずは朝鮮南部の制圧して日本領とするのが目的だった。
〇加藤清正らが休戦中も朝鮮南部に残っていた。
〇どうにか許された小西行長も参戦するも加藤清正との折り合いが悪く日本軍は内部分裂していた。
〇秀吉の進撃命令で朝鮮南部を早々に制圧。前回の経験からすぐには北に進まず倭城を建築して地盤を固めて軍が長くなって食料調達が途切れないようにした。
〇秀吉の命で朝鮮に降伏交渉を小西、加藤が別個に行うもともにうまくいかず決裂する。
〇明軍も加わった朝鮮側の反撃に敗れ加藤清正も自害寸前まで追いこまれたが、どうにか逃れて戦線は膠着状態となる。
〇朝鮮軍に対する殺戮も熾烈を極め大将のは首を取り、それ以外は死者の鼻をそいで戦果のしるしとした。たくさんの鼻を持ち帰ったため京都方広寺の隣に耳塚を造成してそこに祀り、埋めることになった。
〇たくさんの朝鮮人を拉致して日本に連れだした。その中でも手に職のあるものは日本では優遇され伊万里焼きなどの大陸の技能が彼らによって伝えられた。
〇戦、ゲリラ、食料不足と朝鮮の冬の寒さで日本軍もかなりの死者がでた。
〇黒田長政や浅野が勇気をもって秀吉に戦線縮小を諫言したが、秀吉の怒りを買い、二人とも処分を受けた。
〇秀吉の命令を伝える役の石田三成が、加藤清正らの出兵側から逆恨みを受けた。後々その対立が関ケ原の戦いにつながっていく。
〇慶長の役中に豊臣秀吉はなくなり、徳川家康などの五大老に幼い秀頼を託した。

結構、いろいろありましたね。ここにかぎらず絶対権力者豊臣秀吉による大胆な仕組み変更があり、混乱の時期ではあったと思います。
まあ、スペインによる宣教師を使った日本植民地計画もあったようで、秀吉はそこから救った面もあると思います。
ある意味、最も歴史に爪あとを残した一人でしょう。。

トップの写真は倭城あと順天倭城(スンチョン倭城)です。勿論、行ってなのでこちらから拝借しました。
城ラボ

今年中にフェリーを使って是非とも探索したいですね。観光地でもなさそうで行きにくそうな気もするけど。。

番組ホームページ
,https://bs.tbs.co.jp/culture/medieval/
TVer 上記の内容は2月11日まで見れます。
https://tver.jp/series/srl32ug4e7
登録日:2024-02-05 22:55:29(月) トップへ 歴史一覧へ
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